先日のセミナーの時もそうだが、耳が聞こえない彼の話は感動的だったが、必要以上に涙が止まらなかった。
帰りの電車の中でも一人涙が止まらなかった。自身で昨日のブログを書いていても涙してしまった。止まらなかった、涙が。
実は、自身の過去を投影してしまったから。実は今もこのブログを書きながら涙が止まりません。
涙が出るだけ良い事だと思います。
状況は全く違うが、自身も父親の愛に深く感銘を受けた出来事があったのだ。思いだしてしまったのです。
自分は19歳の時に母親を亡くし、翌日に父親は脳卒中で危篤状態になった。
父親を緊急病院に入院させながら、母親の葬式の喪主を務める事となる。
自分にとってかなり苦しい時代でした。
母親の死因にも納得できなかったし、オヤジの勤め先の人に、励ます意味で言われた一言。
「不自由が残って、生きていられるより一層のこと亡くなってくれた方が方がいいよね」
また、病院では回復の見込みがないので、退院してくれとか。
仕事の関係で病院にいけないと、看護婦の冷たい言葉。
さまざまな、周りの言葉や態度、制度でボロボロなった。
孤独と不安とせつなさ、絶望感、自分を見失った。悲しくてしょうが無いのに涙すら出ない。
本当につらいという状況を越して、生きているのさえ嫌になった。
ただ、言葉もしゃべれない父親が支えだった。
幸い、まわりの助けもあり、父もリハビリの病院に転院することになった。
しばらくして父親の病気が安定してくる。
もちろん、後遺症があったが、意識もはっきりしてきて病院に見舞いにいくと、笑顔をみせてくれる。
自分にとって暗黒の時代ではあったが、たった一人の肉親である父親の笑顔は嬉しい限りだ。
だけど父親は脳卒中の後遺症で言葉はしゃべれない。半身が動かない状況で寝たきり状態。
可能な限り、父親がリハビリをしている病院に行くようにした。洗濯物を持って帰り自宅で洗って病院にもっていく。バイトにいく。そんな生活が続く。難しい、保険の手続きや役所に顔をだしたり、なんか同年代の友人が、彼女がどうだとかギャンブルがどうだとか、半年前まで自分が話していた話題に加われない自分がいた。
頭の中は家族(おやじ)のことでいっぱい。
自然と友人との接点が減っていった。
でも、いいと思った。当時は世界にたった一人の肉親がオヤジだったんで。
元気な頃は、決してオヤジは大切にしてなかった。殴った事もあったし、馬鹿にしたこともあった。
でも今は、しゃべれなくても、あるけなくても、どうであろうと自分を生んでくれた親であるし、一番大切な人だった。
ある時病院に見舞いに行くと、しゃべれないオヤジが何度も訴えかける。
言葉はちゃんとしゃべれない。
「○○○~~~」
言葉は分からない。でも何度もオヤジ言ってくる。
最後は少し怒り口調で・・・・。
何度目位だっただろうか。はっきりと自分が理解できたのは。
「帰れ、俺にかまわないで」
なんか、ある時を境に直ぐに「帰れ」的な表現をすることが多くなったオヤジ。
時間を作って見舞いに言ってるので、行ってすぐに帰れってちょっと頭にくる。
あまりにそんな機会が多かったので、オヤジの真意を思い、じっくりと話した、筆記で。
「俺にかまうな!」
オヤジは俺のことを思い、脳の障害にあいながらも、俺にかまってないで自分の青春を楽しめ!
ということであった。
ベットの上だけで生活をしている親父が、自分の事を気にかけてくれている。
深く感動して、涙を流しながら親父の手を握り、「なに言ってるんだよ、俺にとって唯一の肉親が親父なんだよ、そんなこと言わないでくれと」病室で言った・・・今でも鮮明に覚えている。
自分の体験や今もかかえている色々なこと・・・・。色々あって1000人に一人かもしれないと1万人に一人の経験かもしれない。
どちらかというとマイナス的な要因かもしれない。
何度も良からぬ事も考えた時期があった。ただ、だからこそ今の自分がいるのかもしれない。
母を亡くして、父親の食事を作る必要があったから、料理を勉強したり興味ももてた。
両親を早く亡くしたので、必然的に自立しなきゃいけないって意識も強かったし。
一見マイナス要因に見えるが、プラス要因になっていると自分では思っている。
昨日の耳の聞こえない彼も、苦悩してはいたが父親の本当の愛情を感じることができ、得た物は大きいと思う。
自分も過去は過去として、今は亡き両親の分まで幸せにならないといけないと思うし、周りを幸せにしないといけないと感じている。
母が亡くなって25年がたった今、新たに感じた事です。
自分が幸せを感じるためには人を幸せにしなければ。
あの時の父親との思い出を胸に抱きながら、我を張る。頑張る!
ありがとう。今度は自分がありがとうと言われる存在になります。
オヤジ、お袋見ててくれよ!